囲碁史散歩(4)
囲碁史散歩(4)
囲碁史会会員 光井一矢
今回は徳川家康と碁敵について紹介する。家康とよく囲碁の記述があるのが、細川幽斎、伊達政宗、そして浅野長政である。
特に家康と長政の対局に関するエピソードには面白い話がある。「武辺雑話」に二つ載っている。
あるとき、長政と対局していた権現様(家康)は形勢芳しからず、かなり機嫌を損じている様子。そこで、長政の末子である釆女長則が本因坊(算砂)に迎えを出して観戦させた。
権現様は本因坊を見つけると、手招きしてこういった。「わしらの碁はどうじゃ。この石をハネたらどうじゃ。それよりほかに手はなかろう」と。本因坊は答えた。「おハネなさるよりありません」
そこで、権現様はハネを打って、その碁を勝ち機嫌がなおった。一方、長政は大いに怒り、本因坊を次の間へよびだし脇差に手をかけ「へんなところへその方がしゃしゃり出で、わしは碁を負けた。重ねて助言しようものなら斬って捨てるぞ」と詰め寄った、というもの。
もう一つは、別の日、屋敷の庭前に毛氈を敷き、両者はその上で碁を囲んだ。立会いの算砂は「日が当たり、まぶしいですから」と断って日除け傘をさした。その傘には、あらかじめ小さな穴が空けられており、家康が石を打つべきところへ穴からの日差しで示す。家康は算砂の意図をさとり、そのとおりに打って勝つことができた。長政は不興千万に思い悔しがったが、家康は算砂に「お前は頭が良い」といってほめたという。
長政が悔しがれば悔しがるほど、家康はカサにかかって追いつめた。長政が失着を重ねるたびに「待った」を許してやり、長政が投げようとすると、「こまかい、こまかい」といって投了をみとめない。最後まで打って、結局五十目以上の大差で勝つこともあった。
長政が死んだとき、家康はしばらくの問、碁を打たなかったと言われている。
綱川幽斎も家康と囲碁の記述を多くのこしている。家康主催の碁会には幽斎はほとんど出席しているし、幽斎自身もかなりの回数碁会を催している。
幽斎の没後も三日間、囲碁将棋を差し止めている。ライバルがいなくなるとこうして喪に服したのだろう。幽斎は遺言で愛用の盤石を家康に譲っている。
家康と囲碁のライバルではないが、囲碁を嫌っていたという人物では石田三成が有名である。
あるとき両者は伏見から船に乗り、大阪の前田利家の館へ向かった。その船中で囲碁を打ったという。その船中で囲碁を打ったという。その席には、浅野長政をはじめ、福島正則、池田輝政、黒田孝高(如水)、加勝清正、藤堂高虎らがいた。後の関ヶ原合戦で東軍として戦う面々である。そこへ石田三成がひょっこり顔を出したので一同すっかり興醒めしたという。
家康は囲碁で人の和を広げたが、三成は囲碁をしなかったので孤立してしまったという話まであるぐらいである。
織田信長、豊臣秀吉の囲碁の記録に関しては、伝説的な要素が強く、後生の創作であるとされるが、家康に関しては多くの記録から本当に囲碁が好きであったことがわかる。
次回は織田信長の伝説について述べる。