囲碁史散歩(2)
囲碁史散歩(2)
囲碁史会会員 光井一矢
初代本因坊(二)
初代本因坊算砂と関わりが深い戦国武将といえば徳川家康です。江戸時代の基礎を築いた家康は囲碁や将棋を好み、碁打ちたちにも俸禄を与えた。家康がいなければ現在の囲碁界はどのようになっていたかわからない。
家康が囲碁を始めた時期は定かではないが、はじめ家康はあまり碁が好きではなかったらしい。人が碁を打つのを見るにつけても、周囲に迷惑を与えるだけで何の役にも立たないと決めつけ、これを好む人は間抜け者のように思っていたという記述もある。
〔(家康は)概して無用の遊びは好まなかった。ときには申楽(能楽)や囲碁将棋などを暇つぷしに遊んだが、深く心にとめたわけではない〕
別の条には、
〔織田信雄のように、織田家をつぶし、国の統一も果たせず、能ばかりうまくなっても何の益があろうか。まぬけ者というべし。徳川殿は雑技(囲碁や将棋などをふくむ雑多な遊び)に心をうばわれず、つねに弓矢を取らせては家康の上に出る者はいない。皆の衆、小事にかまけて大事にうといということは、これ又まぬけ者というべきだ、と戒められた〕
とある。
これは編者の偏見が多分にあるのではないかと思われる。
戦国の世では囲碁や将棋、または茶などよりも武芸の方が大事と考え、家康は遊芸よりも武を好むというイメージがあったが、家康の違った側面を見ることもできる。
家康の囲碁の記述がはじめて見られるのは『当代記』の天正十五年閏十一月十三日である。前年には、家康と秀吉が大坂城で会見し、この年は北野大茶会が催されている。戦乱もようやく鎮り、家康も遊芸を楽しむ時間が生まれてきたのであろう。
家康の最初の囲碁記述である。
「碁打ちの本因坊新城江下、亭主九八郎信昌、此夏於京都為碁の弟子の問如此、則令同心駿河江被下、家康公囲碁数奇給間、日夜有碁」
〔本因坊(算砂)が新城へ下ってきた。(奥平)九八郎信昌がこの夏、京都において算砂の弟子になったことから、算砂を駿河へ呼んだ。家康公は凶碁を好まれ、日夜打たれた〕
この記述により、家康は囲碁に熱中していたであろうことが見られる。算砂が駿河に逗留しているあいだに手ほときを受けたものと思っていいだろう。入門直後に、日夜打たれた、というほと軌中するとは思いにくいので、この当時家康はそれなりに打てていたのであろう。
ここに出てくる奥平九八郎信昌は家康の娘亀姫を娶っており、また信長にも目をかけられており「信」の一字をあたえられた。長篠の戦の折、長篠城に籠り武田軍と戦った人物である。この奥平信昌は本因坊算砂の門下となっており、算砂と家康を引き合わせたとしても不思議ではない。信昌が家康に碁を教えたとも考えられている。
家康には多くの武将との囲碁についての逸話があり、碁敵と呼ばれる武将も多かった。それらは次回以降に回そうと思う。
豊臣秀吉と家康が対局したと伝えられている碁盤がある。
実際に対局があったかは不明だが、豊臣家と徳川家の家紋が碁笥に刻まれている。この碁盤は京都大徳寺龍源院に展示されている。
(「日本の碁」第3号掲載/平成26年8月14日発行)