囲碁史散歩(3)
囲碁史散歩(3)
囲碁史会会員 光井一矢
初代本因坊算砂(三)
本因坊算砂と徳川家康について貴重な資料が発見され、平成十九年に囲碁史研究家によって解説されたので紹介したい。
廿七日
於 七条 御門跡 他徳 五目
廿九日
於 因幡法印 御成 自徳番 十二目 自勝
八月二日
於 加賀大納言殿 御前 他徳 十一目 自勝
同日
自徳番 八目 自勝
同四日
於 新城駿河殿 御前 他徳
此一帋(紙)元祖本因坊算砂
法印棋帳之中天正文禄
年間之筆記也附属西村
広良丈尤可為家珍者也
寛延己巳年(一七四九)
十二月 井田道祐
書判
この文書は本因坊算砂棋帳の断簡に、井田道祐(本因坊道知門下)が奥書し、道祐の門人・西村広良に与えたもの。
前半の七十六文字は算砂自筆の対局覚書ともいうべきもので、大変貴重なものである。紙が継がれた後半は井田道祐の筆。
まず、後半の部分だけ読み下しておこう。
「この一紙は元祖本因坊算砂法印の棋帳のうち、天生文禄年間の筆記なり。西村広良丈(丈は尊称)に附属し、もっとも家珍(家宝)たるべきものなり。寛延二己巳年(一七四九)十二月 井田道祐」
算砂の棋帳文書を詳しく紹介したいところだが、紙数の関係で興味深い部分だけを紹介する。
文書の中には加賀大納言の徳番で自十一目勝ちとある。加賀大納言は前田利家のことである。さらに駿河殿の徳番で対局したことが記されているが、結果は不明である。前田利家の加賀大納言に従えば家康は江戸内大臣殿もしくは江戸内府殿となるが、これは算砂と家康の関係から馴染めない。算砂にとって家康と利家の親疎の差なのかもしれない。
手合制のことについて触れよう。徳番とは互先などのときに有利な側、つまり黒番であることを示す。となると、家康や利家は算砂と互先で、このとき黒番であったということになってしまう。
この文書が発見されたとき、家康と算砂は互先だったのかと思われたが、これには当然ながら疑問があり、異論もある。
ここに二つの異論を紹介する。
徳番を先番と見ると算砂と利家、家康とは互先のようであるが、これは置碁にも当てはまるのではないかということ。五子や四子の手合だったら、四子なら算砂が徳番、五子なら利家や家康が徳番というもの。
もう一つの見方もある。「加賀大納言」 も「新城駿河殿」も利家、家康自身と対局したということではなく、その御前で算砂がほかの碁打ち、たとえば利玄などと対局したのではないかというもの。これなら徳番の意味もわかる。
後者の意見が有力なのではないかと思われる。
なお、他徳は相手が徳番、自勝は自分の勝ちという意味。覚書なので、そうした表現を使っている。