囲碁史散歩(1)
囲碁史散歩(1)
囲碁史会会員 光井一矢
初代本因坊(一)
これから本因坊算砂のことについて書こうと思う。算砂といえば、初代本因坊、江戸時代囲碁家元の元祖といったイメージがあるだろう。だがそれ以外のことはどうだろうか。どのような人物で、どのようなことをしたのだろうか。
まず、本因坊とは何か、今回は本因坊発祥の地である寂光寺について述べる。寂光寺は京都十六本山のひとつで、日蓮大聖人滅後二九六年後の天正六年(一五七八)に久遠院日淵上人により京都近衛町に創建されたが、天正十八年には豊臣秀吉による聚楽第建築のため、寺町通竹屋町(現在の久遠院前町)に移り、境内に久成坊・実教院・実成坊・詮量院・本成坊・玄立坊・本因坊の七塔頭を建て、布教活動をおこなっていた。
宝永五年(一七〇八)には京都の三大大火のひとつ「宝永の大火」により寂光寺は焼失。これにより現在の東山仁王門西入に移転した。
本因坊とは寂光寺の塔頭の一つだった。その本因坊に住んでいたのが本行院日海であり、後の本因坊算砂である。現代ある本因坊戦はこの本因坊から来ている。
算砂は永禄二年(一五五九)五月、京都長者町で生まれた。本姓は加納、幼名は與三郎といった。
與三郎は八歳のとき、後に寂光寺の開祖となった久遠院日淵の門に入った(日蓮宗)。翌年剃髪して本行院日海と名乗った。
この日淵と日海とは叔父甥の関係であると『本山寂光寺誌』に記されている。実はこの日淵が初代本因坊ではないかと現在では考えられている。といっても囲碁とは関係がない。
算砂には仙也という囲碁の師がいる。この仙也については堺の住人であること、碁がかなり打てる息子仙角がいたということ以外、生没年などもわかっていない。現在では棋譜ものこっていない。仙也の名は豊臣秀吉が碁打衆に授けた朱印状に出てくる。
天正十六年(一五八八)、秀吉は碁打ちを集めて囲碁大会を開き、算砂が優勝した。そのとき朱印状をあたえたのである。
そこには、他のものはすべて本因坊に定先以下を命ずるというものだった。しかし、仙也だけは本因坊の師ということで互先とするとも書かれている。
これは算砂の伝説の一つであるが信憑性は低い。この他にも本能寺三コウ伝説があるが、紙数の関係で次回以降に譲る。
碁打ちとしての算砂は知られているが、算砂は僧侶である。僧侶としての算砂はとうであったか。
算砂は寂光寺二世住職だが、いつごろ日淵から譲られたかははっきりしない。あるいは天正十八年(一五九〇)、寂光寺を再建したときかとも思われる。
寂光寺の史料には、日海が文禄元年(一五九二)権大僧都となり、慶長十七年(一六一二)法印に叙せられたとある。僧侶として位入臣をきわめた。
寂光寺の所蔵品には算砂に関するものがあり、肖像画をはじめ、碁盤や額がある。これらは寂光寺を訪れ、寺の方に声をかければ拝見させていただくことができる。
また、寂光寺本堂脇には墓地があり、そこには本因坊算砂をはじめ歴代本因坊の墓が並んでいる。
今回は第一回ということで算砂の経歴や寂光寺について述べさせていただいたが、これから資料に基づき、算砂の生きた時代や人物たちにも触れていこうと思う。
(「日本の碁」第2号掲載/平成26年7月14日発行)