囲碁史散歩(五)
囲碁史散歩(五)
囲碁史会会員 光井一矢
これまで徳川家康のことを述べてきたので、前後してしまうが織田信長について述べようと思う。
算砂と信長について有名な伝説が二つある。
一つは、天正六年(一五七八)、織田信長が上洛した際、算砂を召し出して五子で教えを受けたり、対局を見たりしてその技量に感心したという。それにより「その方こそまことの名人」だと称えたというもの。これが名人という言葉の初出だというがどうだろう。当時の算砂は二十歳であり、それだけの実力があったかどうかは疑問があるとされる。
そして何より有名なのが本能寺の変前夜のことである。
算砂と利玄が本能寺に招かれ、信長の御前で碁を打った。そのときに三コウが発生した。珍しい形に勝負がつかない。算砂や利玄は不吉な兆しとしたが、信長は逆に吉兆だとして取り合わなかった。そしてそのすぐ後に本能寺の変に遭ったのである。そのため三コウは不吉の兆しとされてきた。
しかし、これには信憑性がなく、囲碁界以外の資料にはこの目、算砂等が招かれた記述はない。そのときに打たれたという棋譜もあるが、三コウが出来そうな形はどこにもない。そもそもこの話がはじめて出てきたのは、本能寺の変より一○○年以上も後のことである。 本能寺の変と算砂についてここまでは多くの囲碁ファンもご存知であろう。実はこの話には続きがある。
信長の首塚伝説である。
本能寺の変のとき、信長の遺骸は発見されなかったが、信長の首級を算砂が持ち出させたという説である。
信長の首が埋葬されたと伝わるのが、静岡県富士郡芝川町にある西山本門寺という古刹である。寺による由来では、原志摩守宗安が算砂の指示で、自身の父と兄の首とともに本能寺から持ち出したという。
西山本門寺は日蓮宗の寺で算砂とは共通点があったとみてよいだろう。
現在でも信長の首塚はあり、信長の遺骸はどこにあるのかという本能寺ミステリーの中の一つになっている。
このように信長と算砂に関しては伝説が多い。さらに一つ、安土宗論について出来事がある。日蓮宗と浄土宗の宗論でご存知の方もおられるだろう。信長が浄土宗側に勝たせたというのであるが、負けた日蓮宗側には算砂の師である日淵が参加している。しかし、信長が算砂を知っていたため、日淵だけは命が助けられたというものである。こういうことはあるのだろうか。
信長の碁については囲碁界の資料しか残っていない。何かしら資料が出てくれば面白いと思うのだが…。
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次回は秀吉について述べよう。秀吉も信長と同じように伝説は多いが、信長よりも資料が残っている。