囲碁。CP騒動
李世ドルとCP対決ということで、「囲碁」が世界的な話題になったのは周知のとおりだ。彼が3連敗したときは極言すれば世界全紙が報道したのではないかと思われるくらいだ。囲碁が世界的に同時に騒がれるなんてことは史上初めてで、ある意味囲碁関係者にとってはうれしい、ありがたい話と思うべきだが。
大半はCPの礼賛。人類の壁を越えたと。だが本当に「囲碁」を超えたというのが正しいのか。
この論争は30年くらい前からあった。361の階乗(天文学的な)の変化はこえられまいと。高速演算CPの出現でその論は影を潜めた。次に出てきたのは「等価値論」。囲碁にはいくつもの等価値の着点がある。それが一手ごとに現れる。その選択はできまいというものであったが、今回のアルファ碁はそれをも超克したということなのだろう。この技術の進化は誠に素晴らしい。新聞が礼賛するのも当然だ。今それに異を唱えたらそれこそ袋叩きに会うだろう。黙っているのが賢いかも。
でも世界の風潮(EX典型的な例としてドイつ語の新聞の一紙が15日付。大見出しで「Go ist Verloren,eine Hoffnung bleibt::Poker]で報じている。要は碁はもうだめだ。唯一残る希望はポーカーだと。まあ皮肉かジョークか)
まあ彼らには囲碁への深い思いはない。無機質な勝ち負けだけの皮相的な観察というべきだ。
こういった囲碁後進国の論調に惑わされてはいけない。
(一寸余談になるが、今進めている署名運動。「学校でとりあげているところは世界でいくつあるのか」なんて言う質問が来る。囲碁先進国の日本がなぜ欧米の後進国に教わらなければいけないのか。それは明治の舶来思想ではないのかと答えているが。)
これが問題だ。世界中が勝ち負けだけで論じている。まあ一時の喧騒は仕方がないが、みな冷静になったらこの問題の本質論を真剣にやるべきではないか。大量の報道の中で囲碁の持つ精神t的な側面(これは長い歴史の中で育まれかつ実証されてきた)を論じたものがあるのか。
今こそ全碁協の「日本の碁」の出番ではないか。(内久根)